積読山脈縦走記

文庫と新書で世界は廻る

第003座 カフカ断片集


カフカの文章独特の謎めいた味わいは、ほかの作家ではぜったいに味わえない甘露なので、味わいたければ彼のテクストを何度も繰り返したどるしかない。だが、彼が生前遺したテクストは限られていて、その量はかき集めてみても微々たるものである。このように、好きなものほど手に入りにくく、手に入るものは粗悪品ばかりという状況を俗に「カフカ的矛盾」と言う。

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カフカは死ぬ間際、友人に自分の原稿はすべて処分するように、と言い残して死んだ。その禁を破って一部を世に出したがために、隠したって無駄だぞ他にもまだあるだろう、と次々と出さざるを得ない状況が生まれてしまう。こうして、未完の小説だけでなく、日記や創作メモの類までが日の目を見ることになったのだ。
時代は下がって現在、「没後100年」ということで、何を言いたいのかよくわからないメモまでもが何か曰くありそうな断片集としてこうして編まれてしまう。これこそが「カフカ的悲劇」である。きっとテクストは彼の手を離れ、読者のものとなったのだ。読者は好き勝手にテクストを解釈して愉しむ。カフカ自身も草葉の陰で涙しているのではなかろうか。

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なぜカフカは自らの手で原稿を処分しなかったのか。最大の謎である。その手がかりが本書のなかにあった。

[虚栄心]
虚栄心は人を醜悪にする。
だから、ほんとうは虚栄心を押し殺さなければならないだろう。
だが、虚栄心は押し殺されることはなく、傷つくだけだ。
そして、「傷ついた虚栄心」となる。

自身がこう語っているとおり、本来なら焼却すべきはずだった原稿は焼却されることなく、「日の目を見た原稿」になる、と置き換えてみれば、その謎は解けそうだ。
カフカは自らの文章を虚栄心に溢れた駄文だと本気で思っていたフシがある。だからこそ万が一出版されても虚栄心に傷がつくだけ、と思っていたのだ。自らの死後に原稿を処分するように、と言ったのも、生きている間にその虚栄心を押し殺すことはどうしてもできなかったからだろう。

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没後100年に断片を集めて作った本書ではあるが、その真価は、こうしてわれわれがノートやメモまでもを渉猟できるのも、カフカが虚栄心を押し殺さなかったおかげなのだと、あらためて友人の裏切りをありがたく受け止めておくべきなのかもしれない。

[第003座]
カフカ断片集

フランツ・カフカ頭木弘樹(編訳)/新潮社(新潮文庫)/2024.06

第002座 世界のふしぎな色の名前

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小学生のころ、絵の具の色ではじめて聞き覚えた色の名前がビリジアンだった。これはわたしと同世代でなくてもきっと共感してもらえると思う。絵の具の色の名前にはもうひとつ、セルリアンブルーというのもあったけれど、こちらはまだ「ブルー」と言っているところがどこか言い訳じみているというか、日和見主義な感じがして好きではなかった。

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で、ビリジアン(viridian)だ。青みがかった深い緑を指すこの色の名前。じつはラテン語の「緑色(viridis)」に由来することばであるとは、今回調べるまで知らなかった。

たしかにラテン語由来の言語における「緑色」は、「vert(仏)」「verde(伊)」「verde(西)」とほぼ一緒だから、ラテン語圏の人々がビリジアンと聞けば、緑に関することばなんだろうな、くらいには思うかもしれない。だが、日本人にとってはあまりに手掛かりがなさすぎて、緑色(という語源)にまで辿り着けない。

つまり、日本人にとってビリジアンはその出会いからして謎めいていて、つねに異物感のあることばなのだろう。異国の色の名前が突然絵の具に現れる、というカルチャーショックにも似た経験を通じて、色の名前は必ずしも世界共通ではないことを子ども心に知るのかもしれない。

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世界にあまたある色の名前を集めた本書は、文字どおり色見本としても使うことができる。「月白」「農民の青(ペザント・ブルー)」「オリーヴ・ドラブ」「ドランク・タンク・ピンク」「言わぬ色」「マミーブラウン」…古今東西の色の名前を眺めているだけで、うきうきと楽しくなってくる。

CMYK値も示してあるので、デザインに活用することもできるようになっている。ホームページ制作などでも役立ちそうだ。

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さて、冒頭から何度も連呼してきたビリジアンだが、なぜだかこの本には載っていない。絵の具からビリジアンが消えたということでもなさそうなので、あらためてなぜビリジアンが子どもの絵の具に入れられることになったのか、その由来をちゃんと調べてみたいと思う。

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[第002座]

世界のふしぎな色の名前

城一夫、カラーデザイン研究会/グラフィック社/2022.06

 

第001座 きのこの自然誌

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今年の正月は、年の瀬にどこかで貰ってきた風邪が尾を引いていて、文字どおり寝正月になりそうだ。とにかく咳がひどく、なかなか抜けない。英語では頑固な咳のことを「persistent cough」というけれど、このpersistentの語感はまさにいつまでもしつこく抜けない咳のイメージがしっくりくる。

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元日のきょうは初詣はおろか、積読本の整理もできないままに、もそもそとお雑煮を食べたあと、小川真『きのこの自然誌』(ヤマケイ文庫)を引っぱりだして読みはじめたのだが、これが滅法面白かった。

知る人ぞ知る「きのこ博士」が描くきのこの絵は、息を呑むような精緻さには若干欠けるもののとても温かみのあるスケッチで、博士の人となりが感じられてとてもやさしい気持ちになる。きっとたくさんの人から愛された人なのだろう。

古今東西のきのこにまつわるエピソードを惜しげもなく紹介してくれるエッセイもとても楽しんで読んだ。花の牧野富太郎や星の野尻抱影に並ぶ、きのこの小川真の面目躍如たる一冊で、きのこは食べる専門であるわたしにとっても、楽しみの多い本だった。

いちばん好きなエピソードはのちのローマ皇帝ネロの母、小アグリッピナが息子を皇帝にすべく、時の皇帝ティべリウス=クラウディウスを毒きのこを使って暗殺しようとしたときの話。鯨飲馬食が美徳だった時代、腹一杯食べて飲んだら無理矢理吐いてまた食べる飲むを繰り返すのがふつうで、皇帝にはわざわざのどに羽根を突っ込んで吐かせるために侍医が控えていたという。

普段がそんなことだから、首尾よく毒きのこを食べさせてもすぐに吐き出してしまって、なかなか死なない。すると、小アグリッピナは侍医を脅してその羽根に毒を塗り、皇帝ののどに突っ込ませたんだとか。執念もここに極まれり、という話だけれど「もう途中からきのこ関係あれへんやん」と言いたくなる逸話でもある。ちなみにそのとき使われたきのこはタマゴテングタケではないかという。そういうささやかな余談が話を面白く、奥深くする。

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一年の計は元旦にあり、一年の読書もその計は元旦にあり。とても幸先の良い年始の一冊だった。2025年はどんな本に出会うだろうか。楽しみだ。

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[第001座]

きのこの自然誌

小川真/山と渓谷社(ヤマケイ文庫)/2022.02